長浜神社と「出雲」の語源
▼ 長浜神社(2011.2.09)神西湖脇の9号線から左へ。妙見山と呼ばれる山の中腹に鎮座する長浜神社のご紹介です。ご祭神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は国引き神話に登場する神様です。 三瓶山と大山を支柱にして土地を引っ張って来たという壮大な物語で、現在の島根半島や稲佐の浜、弓ヶ浜は継ぎ足されて出来上がったんだそうです。以下は境内の案内板より 【長浜神社 由緒書】 【鎮座地】 島根県出雲市西園町上長浜四二五八番地 妙見山(五六・九mの中腹) 【社名】 上代 出雲社・出雲神社 中近世 妙見社(大社・大明神) 明治以降 長浜神社 【御祭神】 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと) 布帝耳命(ふてみみのみこと) 淤美豆奴命(おみずぬのみこと) 【創立年代】 不詳 和銅三年(七十〇年)の年号及びそれ以前の記述の古文書あり。 【社格】 元県社 島根県神社庁特別神社 【本殿】 大社造変態 【拝殿】 神明造風 【妙見信仰】 北極星や北斗七星に祈る信仰で国家鎮護や武運長久などの御加護で知られる。 戦国時代の大内、尼子、毛利の各武将や豊臣秀吉から、当社は社領寄進や安堵を受け、江戸時代の延宝三年(一六七五年)の火災の復興は松江藩主松平綱近が藩費を以て造営に当り、武家の崇敬を集めた。 【百日祈願と弓掛けの松】 太閤唐入りの折り、百日祈願せし功で方五十丁の社領寄進を受けた。 使いの片桐且元が弓矢をかけた弓掛けの松は、昭和四十八年枯れ死するも根本が残存する。 【神庭桃(かみわもも)】 当社境内の一本の桃の木より当地での桃の栽培が広まり、江戸時代には妙見桃の石州行きとまで称された特産品となった。 【近世の国引き(神門水海の干拓)】 江戸期の慶長年間、秦重成は海岸砂丘の植林・砂防を成功させた。 弟の喜兵衛は、園村沢・萱原沢の湿地の干拓・開田を手がけた。 元和から寛永の頃、一二八〇余石の美田が生まれた。 【ゆかりの神社 金持神社】 鳥取県日野町の金持神社の創建は、弘仁元年(八一〇年)に出雲国薗妙見宮の次男が伊勢参宮の途中、新夢があり宮造りしたとのことで、祀られている神も当社と同じ神。 【厳藻(いづも)かけ】 当地方では忌明けの後、海で身体を浄めた証に海岸の海草をもって神社にお参りします。 お供え物でもあるこの神聖なる海草は「いづも」と言われ「出雲」の語源となった言葉です。 「出雲の国風土記」には当社のご祭神 八束水臣津野命が出雲の国号命名者だと明示されています。 海草はとなりの「いづもかけ」にかけて下さい。 いづもかけ。ほんとうにさりげなく置いてある。 雲が多いので"出雲"だと思っていた。気のせいか漢字の「出」に似てる。 鎮守の森から。神社の周りには、歴史を感じさせるいい感じの大木が多かった。 鎮座地:出雲市西園町上長浜4258 |