柿本神社 (かきのもとじんじゃ・益田市高津町上市イ−2616−1)

柿本神社とレトロ橋

 柿本神社(2010.1.25)


今回は益田市の柿本神社(かきのもとじんじゃ)の紹介です。ここの御祭神はいわずとも知れた万葉集の歌人、柿本人麻呂(麿)です。千三百年以上前の人物ですので謎の部分が多く、諸説存在するそうですが、終焉の伝承がある所のひとつです。歌道などの学問や農業の神として崇敬され、同じ市内の戸田柿本神社とともに高津柿本神社とも呼ばれています。

以下は境内の案内より抜粋
島根県指定有形文化財
【柿本神社本殿】
柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
鴨島は万寿三年(一〇二六年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(一六〇八年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(一六七一年)には津和野藩主亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
そして、延宝九年(一六八一年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。
複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入(いりもやづくりつまいり)、桧皮葺(ひわだぶき)で、唐波風造(からはふうづくり)の向拝を有し、津和野の方角を向いています。
殿内は亀井家の四つ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐波風造屋根を頂く厨子が置かれています。
また柿本神社は享保八年(一七二三年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。

平成八年三月 益田市教育委員会


楼門。百十四年ぶりに改修された。お寺などにある門とよく形状が似ている。他の資料によると人丸寺と呼ばれていた時代があったそうで、その名残かも知れない。


【柿本神社楼門由緒】
歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(七二四)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(一〇二六)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(一六八一)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行三間、梁間一・五間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
前回の大改修は明治二十四年(一八九一)に行われ、今回の平成十七年(二〇〇五)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。


境内の傍らにある巨大な木。樹齢何百年だろうか。神社の歴史が感じられます。

オール金属の吊り橋。路面は金網。車一台分の幅しかないが、地元の方は頻繁に使っているようだった。しかも一方通行でもない。

神社から見えていた橋。画面では広く写っているが普通車のすれ違いがやっと。おどろきなことにバス(!)が通る。橋桁にこすったような跡が無数にあるのもうなずける。

鎮座地:益田市高津町上市イ−2616−1



















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