今回は安来市の能義神社の紹介です。安来の9号線から飯梨川沿いに上流へ、情報科学高校の向かいの丘陵にあります。入り口の鳥居が飯梨川のほうに向いていますので川の土手から確認できます。歴史があり、とても趣のある古社で、出雲大社の杵築大神、熊野大社の熊野大神、佐太神社の佐太大神と並んで能義神社の能義大神で四大大神と呼ばれているそうです。現在のお社は初代松江藩主、堀尾吉晴公の孫に当たる堀尾忠晴公が再建したもので、出雲風土記にも登場する由緒あるお社です。是非。
能義神社の由緒略記
当神社の御祭神は天照大神の第二の御子、天穂日命である。
命は国土奉還のため天照大神の使者として高天原から大国主大神のもとにおいでになり国土奉献に、更には国土の開拓に偉大なご功績を挙げられ、
後に大国主大神の祭主となられ、神代の神傑と称えられた神で、出雲国造千家・北島両家の御祖神であって、代々ご社参の古記や古文書が残っている。毎年十月十九日の例大祭には今もなを必ず出雲大社の千家宮司が親しく参拝される。また当社の創立は古く、奈良時代(七三三年)に記された出雲風土記には野城社とあり、平安時代(九二七年)の延喜式の神名帳には野城神社と記されている。
古社として古くより出雲の国人達は四大大神つまり杵築大神・熊野大神・佐太大神と並んで能義大神とその御神名を称え奉り尊崇して来ました。また朝廷の御尊崇も厚く「六国史」には数度にわたって御神階の贈進があったことが明らかである。従って、武門・武将
国主等の崇敬も深く、多くの社領寄進があり、祭典をより厳かにし、ご造営などその維持に努めた。社殿の構造も古雅広壮を極めていたが、永禄六年(一五六三年)室町時代末期に不幸にして天災で焼失した。慶長十八年(一六一三年)江戸時代初期に至り堀尾氏によって再建され以来十一回の御造営を経て今日に及ぶ大社造りの古社である。
黄金色の木の葉
紅葉
参道脇の柿の木
いい景色です。
鎮座地:安来市能義町366番地 |